2011年06月11日
145-人の心は誰でも幸せになれる
今日は、先日発行された比田井通信(比田井和孝非公式メルマガ)
よりお届けします
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こんにちは!
今日は前回の続きで、千日回峰行の満行者、塩沼亮潤さんのお話の続きです。
毎日48キロの山登りを千日続けるという、
すさまじい修行の中で亮潤さんは何を学んだのか・・・・。
亮潤さんは23歳のときの5/3に、この修行を始めます。
講演の最初の方で亮潤さんがこんなお話をしてくれました。
----------
最初は体力もあります。
気合も入っています。
張り切って、力強く山を登ります。
ところが、ただ力強く、勢いよく登っていると、足や腰に負担がかかってきます。
時には、ゆっくり、しなやかに歩くことも大事なんです。
これは人も一緒だなぁと思いました。
ただ、強く、厳しく言っていても、
相手も疲れ、そしてそれが反発という形で帰ってくる。
人に対しても、ときにはゆっくり、しなやかに接しないといけないなぁ。
----------
みなさん、どう思います?
山道を歩くだけで、こんなことを学んでしまう亮潤さんってすごいと思いませんか?
「賢者は愚者にも学ぶ」という言葉がありますが、
まさに亮潤さんは「賢者」ですよね。
亮潤さん、こんなことも言っていました
「千日間、ただ歩いているだけではもったいなさすぎます。
そこから、何を学ぶことができるか?それが大事なんです」と。
つまり、「千日、歩くこと」が目的ではないんです。
そこから「何を学ぶことができるのか」。これが目的なんですね。
逆に言えば、亮潤さんは毎日毎日48キロを歩いている中で、
たくさんのことを学んだんだと思います。
だから千日間、続けることができたんだと思います。
「学ぶ力」、大事ですね。
私はこれを「素直」ってことだと思っています。
私は「素直とは、すべてのことから学ぶことができる力」と学生に教えています。
亮潤さん、本当に素直な人なんですね。
講演の中で、亮潤さんは千日間の日記を読んでくれました。
35日目
「母さん、ばあちゃんに会いたい。夜も寝ないで話がしたいね。
でも、今はできないんだよ。」
52日目
「人間、妥協しようと思ったらいくらでもできる。
でも、それではもったいない。精一杯のことをやる」
190日目
「雨が降ろうが風が吹こうが、文句を言わない。
なぜなら、自分がすると決めたんだから」
48キロの山登りといいますが、亮潤さんが歩く道はほとんどが獣道です。
そこには、イノシシやシカ、クマもいます。マムシもいます。
夜なんかは真っ暗の中を提灯の明かりを頼りに歩くんです。
マムシに噛まれたら、修行はそこで終わりです。
クマにも襲われそうになったことがあるそうです。
さらに、台風なんかがくると、
尾根づたいに歩いているときは風速50メートルにも60メートルにもなります。
まさに、命懸けの修行です。
落石もあります。
一番つらかったのはちょうど、修行の真ん中頃だと言っていました。
488日目に、落石にあい、左足を痛めます。
それでも亮潤さんは歩き続けます。
490日目には、38度の熱。下痢。
それでも亮潤さんはそんなそぶりを見せることなく、歩き続けます。
里に下りてきて歩いていると、道行く人は
「いつも、元気そうやね」と声をかけてきたそうです。
でも山の中をひとりで歩いているときは、もう、這うように歩いていたそうです。
そんな体調の中でも睡眠時間は4時間半です。
どんなに、辛くても自分のことは自分でやらなくてはいけません。
それが、修行です。
もう、お茶を飲んでいる時間も、お風呂に入っている時間も
もったいないような状態だったそうです。
ついに495日目に亮潤さんは寝坊をしてしまいます。
あわてて、出発をしますが、杖も忘れ、提灯も忘れて出てしまいます。
戻っている時間はありません。
真っ暗な山道を杖も、提灯もなく歩きます。
体調は最悪です。
ついに亮潤さんは道にうずくまってしまいます。
うずくまっているのが、本当に心地よく感じたそうです。
その時に亮潤さんの頭に浮かんだのは、
家を出て修行に行く日の朝のことだったそうです。
(もう、頭も朦朧としていますから幻覚のようだったと言っていました)
その日の朝、朝食をすませると、
お母さんは亮潤さんが使っていたお茶碗とお箸をゴミ箱に捨てて、
「お前の帰ってくる場所はここにはもうない。
お前の親は和尚さんになったんだ。
砂を噛むような修行をしてきなさい。
お母さんとおばあちゃんは大丈夫。
行ってきなさい。」
そう言ったそうです。
お母さんの覚悟も凄いですよね。
お母さんは自分と、亮潤さんに覚悟を決めさせるためにそんなことをしたんでしょうね。
亮潤さんはその時のことを、幻覚のように思い出して、
思わず土を口の中に入れたそうです。
「砂を噛むような修行・・・・・、こんなもんじゃない!」と思えて、
また亮潤さんは歩きだすことができたそうです。
最悪のピンチの中で、お母さんの思いが亮潤さんを救ってくれたんですね。
その頃、その年の修行が終わり、お医者さんに行くと、
「60代後半の足です」と言われたそうです。
皆さんは不思議に思うかもしれません。
毎日毎日、48キロも歩いていたら、
さぞ足が鍛えられて、強くなっているんじゃないかと思いますよね。
ところが、筋肉というのは、ある限度を超えて鍛えると、逆にしぼむそうです。
亮潤さんの足は本当に弱ってしまい、
60代後半の足になっていたようです。それでも修行は続きます。
ただ、その頃から、亮潤さんの日記が変わってきます。
525日目
「人の心は誰でも幸せになれる」
たぶん、亮潤さん、そんな最悪な中でも幸せを感じることができたんでしょうね。
そうなってくると、小さな虫の命もいとおしく思え、
虫を助けてあげたり、ミミズを助けてあげたり
自然にできるようになったそうです。
563日目
「人は皆、平等。頭でわかっていても、実践ができない。
心をこめて行じるから、心がきれいになる」
この頃は、60代後半の足で、48キロを歩かなくてはいけません。
心をこめて歩かなくては、とても歩けなかったそうです。
呼吸とリズムを大切に歩きます。
830日目
「のたうちまわり、血ヘドをはいても、
それが表に出ているようでは一人前にはなれない」
どんなに辛くても、
亮潤さんはそんな素振りを周りの人には見せなかったそうです。
990日目
「一心に心」
991日目
「楽しい」
999日目
「この心が、ずっとこのままならいい。この行がずっと続いてほしい」
そして、1000日目です。
亮潤さんの師匠の住職は、
1000日目が終わった時に亮潤さんにこう言ったそうです。
「行を終え、行を捨てよ」
この意味は「自分はこんなにすごい修行をしたんだ」と
思ってはいけないという意味です。
私は
「その修行で学んだことを活かして、
おごることなく、謙虚に生きていきなさい」という意味だと理解しました。
ただ、亮潤さん千日回峰行は終わりましたが、
決して「終わった・・・」という気分ではなかったそうです。
翌年の5月には9日間の「四無行」が待っています。
「食べない」
「飲まない」
「眠らない」
「横にならない」
普通だったら考えられないですよね。
でも1000日間の修行を乗り越えた亮潤さんはこう言っていました。
「食べない」「眠らない」「横にならない」は
意外と簡単でした。でも「飲まない」、これが辛かったです。
人はこういったことをすると、
「五感」が研ぎ澄まされるそうです。
普段、感じることができなかったものが感じられるようになるそうです。
「お線香の灰が崩れ落ちる音が聞えるようになりました」
なんて言っていました。
凄いですよね。
その「四無行」を終えて、亮潤さんが得たのは、
「感謝の心」だったそうです。
「千日回峰行」、「四無行」
どちらも、自分一人の力ではとうていできなかったと言っています。
「どんな修行も一人ではできません。
人はまわりの人に迷惑かけ、そしてかけられて成長していきます。
普段の生活が修行なんです。
そして、同じことを繰り返していく中で、心が磨かれていきます。」
そう、おっしゃっていました。
とても私の文章だけでは、
亮潤さんの深い学びをみなさんに伝えることはできないのですが、
その一部だけでもお伝えすることができたら嬉しいです。
塩沼さん、本も何冊か出してます。
人生生涯小僧の心(塩沼亮潤 致知出版社

↓こちらもよろしくお願いします。(*^o^*)
ウエジョビの日常。─校長ブログ─
最近の記事は
「41-結果より挑戦をたたえよ」
「42-我武者羅inウエジョビ」
【一般参加可能なヒダカズの講演会】
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こんにちは!
今日は前回の続きで、千日回峰行の満行者、塩沼亮潤さんのお話の続きです。
毎日48キロの山登りを千日続けるという、
すさまじい修行の中で亮潤さんは何を学んだのか・・・・。
亮潤さんは23歳のときの5/3に、この修行を始めます。
講演の最初の方で亮潤さんがこんなお話をしてくれました。
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最初は体力もあります。
気合も入っています。
張り切って、力強く山を登ります。
ところが、ただ力強く、勢いよく登っていると、足や腰に負担がかかってきます。
時には、ゆっくり、しなやかに歩くことも大事なんです。
これは人も一緒だなぁと思いました。
ただ、強く、厳しく言っていても、
相手も疲れ、そしてそれが反発という形で帰ってくる。
人に対しても、ときにはゆっくり、しなやかに接しないといけないなぁ。
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みなさん、どう思います?
山道を歩くだけで、こんなことを学んでしまう亮潤さんってすごいと思いませんか?
「賢者は愚者にも学ぶ」という言葉がありますが、
まさに亮潤さんは「賢者」ですよね。
亮潤さん、こんなことも言っていました
「千日間、ただ歩いているだけではもったいなさすぎます。
そこから、何を学ぶことができるか?それが大事なんです」と。
つまり、「千日、歩くこと」が目的ではないんです。
そこから「何を学ぶことができるのか」。これが目的なんですね。
逆に言えば、亮潤さんは毎日毎日48キロを歩いている中で、
たくさんのことを学んだんだと思います。
だから千日間、続けることができたんだと思います。
「学ぶ力」、大事ですね。
私はこれを「素直」ってことだと思っています。
私は「素直とは、すべてのことから学ぶことができる力」と学生に教えています。
亮潤さん、本当に素直な人なんですね。
講演の中で、亮潤さんは千日間の日記を読んでくれました。
35日目
「母さん、ばあちゃんに会いたい。夜も寝ないで話がしたいね。
でも、今はできないんだよ。」
52日目
「人間、妥協しようと思ったらいくらでもできる。
でも、それではもったいない。精一杯のことをやる」
190日目
「雨が降ろうが風が吹こうが、文句を言わない。
なぜなら、自分がすると決めたんだから」
48キロの山登りといいますが、亮潤さんが歩く道はほとんどが獣道です。
そこには、イノシシやシカ、クマもいます。マムシもいます。
夜なんかは真っ暗の中を提灯の明かりを頼りに歩くんです。
マムシに噛まれたら、修行はそこで終わりです。
クマにも襲われそうになったことがあるそうです。
さらに、台風なんかがくると、
尾根づたいに歩いているときは風速50メートルにも60メートルにもなります。
まさに、命懸けの修行です。
落石もあります。
一番つらかったのはちょうど、修行の真ん中頃だと言っていました。
488日目に、落石にあい、左足を痛めます。
それでも亮潤さんは歩き続けます。
490日目には、38度の熱。下痢。
それでも亮潤さんはそんなそぶりを見せることなく、歩き続けます。
里に下りてきて歩いていると、道行く人は
「いつも、元気そうやね」と声をかけてきたそうです。
でも山の中をひとりで歩いているときは、もう、這うように歩いていたそうです。
そんな体調の中でも睡眠時間は4時間半です。
どんなに、辛くても自分のことは自分でやらなくてはいけません。
それが、修行です。
もう、お茶を飲んでいる時間も、お風呂に入っている時間も
もったいないような状態だったそうです。
ついに495日目に亮潤さんは寝坊をしてしまいます。
あわてて、出発をしますが、杖も忘れ、提灯も忘れて出てしまいます。
戻っている時間はありません。
真っ暗な山道を杖も、提灯もなく歩きます。
体調は最悪です。
ついに亮潤さんは道にうずくまってしまいます。
うずくまっているのが、本当に心地よく感じたそうです。
その時に亮潤さんの頭に浮かんだのは、
家を出て修行に行く日の朝のことだったそうです。
(もう、頭も朦朧としていますから幻覚のようだったと言っていました)
その日の朝、朝食をすませると、
お母さんは亮潤さんが使っていたお茶碗とお箸をゴミ箱に捨てて、
「お前の帰ってくる場所はここにはもうない。
お前の親は和尚さんになったんだ。
砂を噛むような修行をしてきなさい。
お母さんとおばあちゃんは大丈夫。
行ってきなさい。」
そう言ったそうです。
お母さんの覚悟も凄いですよね。
お母さんは自分と、亮潤さんに覚悟を決めさせるためにそんなことをしたんでしょうね。
亮潤さんはその時のことを、幻覚のように思い出して、
思わず土を口の中に入れたそうです。
「砂を噛むような修行・・・・・、こんなもんじゃない!」と思えて、
また亮潤さんは歩きだすことができたそうです。
最悪のピンチの中で、お母さんの思いが亮潤さんを救ってくれたんですね。
その頃、その年の修行が終わり、お医者さんに行くと、
「60代後半の足です」と言われたそうです。
皆さんは不思議に思うかもしれません。
毎日毎日、48キロも歩いていたら、
さぞ足が鍛えられて、強くなっているんじゃないかと思いますよね。
ところが、筋肉というのは、ある限度を超えて鍛えると、逆にしぼむそうです。
亮潤さんの足は本当に弱ってしまい、
60代後半の足になっていたようです。それでも修行は続きます。
ただ、その頃から、亮潤さんの日記が変わってきます。
525日目
「人の心は誰でも幸せになれる」
たぶん、亮潤さん、そんな最悪な中でも幸せを感じることができたんでしょうね。
そうなってくると、小さな虫の命もいとおしく思え、
虫を助けてあげたり、ミミズを助けてあげたり
自然にできるようになったそうです。
563日目
「人は皆、平等。頭でわかっていても、実践ができない。
心をこめて行じるから、心がきれいになる」
この頃は、60代後半の足で、48キロを歩かなくてはいけません。
心をこめて歩かなくては、とても歩けなかったそうです。
呼吸とリズムを大切に歩きます。
830日目
「のたうちまわり、血ヘドをはいても、
それが表に出ているようでは一人前にはなれない」
どんなに辛くても、
亮潤さんはそんな素振りを周りの人には見せなかったそうです。
990日目
「一心に心」
991日目
「楽しい」
999日目
「この心が、ずっとこのままならいい。この行がずっと続いてほしい」
そして、1000日目です。
亮潤さんの師匠の住職は、
1000日目が終わった時に亮潤さんにこう言ったそうです。
「行を終え、行を捨てよ」
この意味は「自分はこんなにすごい修行をしたんだ」と
思ってはいけないという意味です。
私は
「その修行で学んだことを活かして、
おごることなく、謙虚に生きていきなさい」という意味だと理解しました。
ただ、亮潤さん千日回峰行は終わりましたが、
決して「終わった・・・」という気分ではなかったそうです。
翌年の5月には9日間の「四無行」が待っています。
「食べない」
「飲まない」
「眠らない」
「横にならない」
普通だったら考えられないですよね。
でも1000日間の修行を乗り越えた亮潤さんはこう言っていました。
「食べない」「眠らない」「横にならない」は
意外と簡単でした。でも「飲まない」、これが辛かったです。
人はこういったことをすると、
「五感」が研ぎ澄まされるそうです。
普段、感じることができなかったものが感じられるようになるそうです。
「お線香の灰が崩れ落ちる音が聞えるようになりました」
なんて言っていました。
凄いですよね。
その「四無行」を終えて、亮潤さんが得たのは、
「感謝の心」だったそうです。
「千日回峰行」、「四無行」
どちらも、自分一人の力ではとうていできなかったと言っています。
「どんな修行も一人ではできません。
人はまわりの人に迷惑かけ、そしてかけられて成長していきます。
普段の生活が修行なんです。
そして、同じことを繰り返していく中で、心が磨かれていきます。」
そう、おっしゃっていました。
とても私の文章だけでは、
亮潤さんの深い学びをみなさんに伝えることはできないのですが、
その一部だけでもお伝えすることができたら嬉しいです。
塩沼さん、本も何冊か出してます。
人生生涯小僧の心(塩沼亮潤 致知出版社

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Posted by 比田井美恵 at 21:03│Comments(0)
│比田井通信
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