2011年07月24日
鹿児島知覧旅行記3 お土産があります
佐藤芳直さんが、入学式特別講演会で
知覧特攻隊の話をしてくださった時、
「彼らは、きっと
自分達の子孫が、
素晴らしい日本を作ってくれるに違いないと
信じていたからこそ、
空に散ることができたのだと思います。
…そんな彼らが、今の日本を見たらどう思うでしょうか。
私達は、
彼らに胸を張って見せることができるような日本…
誇るべき日本を作っていかなければならない
と思います」
とおっしゃっていました。
本当にその通りです。
彼らは自分の事だけでなく、
家族のこと、国民のこと、将来の日本のことを
しっかり考えてくださっていたんですね。。。
さて、知覧の食堂で、
こんな手ぬぐいを見つけました。

「なぜ 生きのこったのか 考えなさい
何か あなたに
しなければ ならない ことがあって
生かされたのだから
特攻の母 鳥濱トメ」
…芳直さんの話を聞いて
「私に何が出来るんだろう、
私の生まれてきた役割はなんなんだろう」
…と、考えていた事もあり、
この言葉は、心に刺さりました。
私にも、何かしなければならないことがあるんですね。
そのために、生かされているんですね。。。
さて、今回は、初めての企画です。
この手ぬぐいを1枚、お土産に買ってきました!
ブログ読者のどなたかにプレゼントします!
※プレゼントは締め切りとなりましたので、
応募方法等は、削除させていただきました。
たくさんのご応募、ありがとうございました!
…初のプレゼント企画、ちょっとドキドキします!
反応を見て、良ければまた企画しますね~!
↓こちらもよろしくお願いします。(*^o^*)
ウエジョビの日常。─校長ブログ─
最近の記事は
「71-コップの水があふれる瞬間」
【一般参加可能なヒダカズの講演会】
←左の列上の方に、たくさんアップしてあります。そちらをご覧ください。
↓いつも、クリックありがとうございます!(*^-^*)
知覧特攻隊の話をしてくださった時、
「彼らは、きっと
自分達の子孫が、
素晴らしい日本を作ってくれるに違いないと
信じていたからこそ、
空に散ることができたのだと思います。
…そんな彼らが、今の日本を見たらどう思うでしょうか。
私達は、
彼らに胸を張って見せることができるような日本…
誇るべき日本を作っていかなければならない
と思います」
とおっしゃっていました。
本当にその通りです。
彼らは自分の事だけでなく、
家族のこと、国民のこと、将来の日本のことを
しっかり考えてくださっていたんですね。。。
さて、知覧の食堂で、
こんな手ぬぐいを見つけました。
「なぜ 生きのこったのか 考えなさい
何か あなたに
しなければ ならない ことがあって
生かされたのだから
特攻の母 鳥濱トメ」
…芳直さんの話を聞いて
「私に何が出来るんだろう、
私の生まれてきた役割はなんなんだろう」
…と、考えていた事もあり、
この言葉は、心に刺さりました。
私にも、何かしなければならないことがあるんですね。
そのために、生かされているんですね。。。
さて、今回は、初めての企画です。
この手ぬぐいを1枚、お土産に買ってきました!
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たくさんのご応募、ありがとうございました!
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2011年07月23日
鹿児島知覧旅行記2
昨日の続きです。
知覧特攻平和会館には、
特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」で亡くなった若者達の
遺書や遺品、写真などが数多く展示されています。
昭和20年3月26日、アメリカ軍との戦争で追い詰められた日本軍は、
爆弾を抱えて、飛行機ごと敵艦に突入するという、
まさに「必死」の作戦に出ました。
「神風特別攻撃隊」と名付けられたこの隊に志願したのは
二十歳前後の、未来ある若者たち。
鹿児島県知覧からは、この特攻隊四百数十基が飛び立ち、
この作戦では、合計1,036名もの尊い命が空に散りました…。
知覧特攻平和会館へと向かう道には、
ものすごい数の石灯篭が並んでいました。

なくなった隊員の数、1,036基の石灯篭を建立しようと、
計画されたようですが、すでに1,036基は超え、
まだまだ増え続けているようです。
石灯篭には、兵士さんが彫ってあります。

裏には、建立した方のお名前が彫ってありました。
実際に特攻隊で亡くなった方のご遺族の方の名前も
たくさん見かけました。…胸が詰まります。

会館の前の木は、飛行機の形に整えられています。



「帰るなき 機をあやつりて 征きしはや
開門よ 母よ さらばさらばと」
会館内には、特攻隊のみなさんの写真や、
遺書や遺品がたくさん…本当にたくさん並んでいました。
館内は写真禁止だったので、撮ってないのですが、
近くの食堂に展示されていたものの写真を少しご紹介します。
この食堂は、隊員たちを少しでも癒すためにと
隊員たちに食事を出していた鳥浜トメさんの
ご子息の方が経営されています。
当時、トメさんの食堂は、
隊員たちがホッとくつろげる、唯一の場でもあったそうです。

展示されていたのは手作りの人形達。

隊員たちは、みんなこういう人形を持っていたそうです。
家族や近くの女生徒が、お守り代わりにと
手作りして差し入れたようです。
割烹着を着ているのはお母さんですね。
自分の息子に、と手作りしたのでしょうか…?
切ないです。
特攻隊員達は、たった一人で戦闘機に乗り込むのですが、
その時にこの人形たちを、目につくところに下げたり、
あるいは胸元にしまったりして、一緒に飛んで行ったそうです。
隊員たちの写真もありました。
…17歳から20代の若者たち…。
みんな、きれいな目をしていました。
微笑んでいる写真もありました。
この写真は、たまたま通りがかった新聞記者が撮ったそうです。
「いつ出撃するの?」と聞いたら、「2時間後です」
(実際には、予定が変更になって翌日の出撃になったそうですが)

あと2時間で、自分の命を懸けて飛び立つというのに、
なんて明るいんでしょうか…。
このうち、3人は17歳なんですって。
右上の男の子なんて、お茶目な表情をしていますよね。
うちの学生でも、こんな表情をする子、いますもの。
ウエジョビの学生たちと年代が一緒で…
余計せつなかったです。
隊員たちの遺書…
涙なしでは見られませんでした。
ある隊員さんの遺書には、こんなことが書いてありました。
----------
母上様、
今まで23年間、一点の曇りもなく育ててくださいまして、
ありがとうございました。
私は今まで親孝行の一つもできませんでした。
でも、今回、命を受け、晴れて特攻隊として
お国のために尽くすことができます。
最初で最後の親孝行になります。
もしも、私が、成功しましたら、
「せがれ、でかしたぞ」と
言ってやってください。
母上様の息子に生まれて23年間、
私は幸せでした。
ありがとうございました。
----------
この遺書を読んで、とても切なくなりました。
隊員たちは、きっと、みんなそんな気持ちだったのでしょう。
「お国のため」と書いてありますが、
その底には、
「これが親孝行になる」と信じる気持ちが
とても強かったように思えます。
ただひたすら、親を喜ばせたい一心で、
自分が犠牲になってでも、
大切な人たちを救おうとしていたように思えます。
なんて切ないんでしょう。
…もう、2度とこんなことを繰り返してはいけません。
どの遺書も、親や家族への感謝の気持ちであふれていました。
謙虚な人柄が伝わってきました。
近くで見学していたグループが、
「みんなしっかりしているなぁ、今の若者とは全然違うなぁ」
…と、会話しているのが耳に入りました。
もしかしたら、そういう部分もあるのかもしれませんが、
私としては、今の若者たちも同じ純粋な気持ちを持っているように思えました。
もしも、自分の命が明日で最後…という、極限の状態になったら、
きっと、今の若者たちも、やっぱり
親への感謝の気持ちを書くような気がします。
…そう思いたいです。
…3人とも、涙涙で会館を後にしました。
最後に、父が言っていた言葉が印象的でした。
「特攻隊や戦争がいいとか悪いとかは別として、
教育の力っていうのは、そういうものなんだ」
…心にズシンと来ました。
確かにそうです。
「お国のために」と、自ら命を散らせていった若者達…
彼らの笑顔の写真をみるにつけ、
「どうして? どうして、笑顔なの?
つらくないの? 嫌じゃないの?
泣きたくなかったの?」
という思いがあったのですが、
これも「教育の力」なんですね。。。
ある意味、とても恐ろしいものだと思いますし、
逆に、希望が持てる部分でもあります。
「教育で世界は変えていけるんだ」
…と、涙ぐみながら考えていた私でした。
教育に携わる者として、
真剣に受け止めなければならない言葉です。
隊員たちの遺書や写真を見て、もちろんたくさん泣きましたが、
ただ「かわいそう」というだけでなく
自分自身のことや周りの人たちのことを
いろいろと考えさせられた、貴重な時間でした。
また、絶対に訪れます。知覧。
↓こちらもよろしくお願いします。(*^o^*)
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特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」で亡くなった若者達の
遺書や遺品、写真などが数多く展示されています。
昭和20年3月26日、アメリカ軍との戦争で追い詰められた日本軍は、
爆弾を抱えて、飛行機ごと敵艦に突入するという、
まさに「必死」の作戦に出ました。
「神風特別攻撃隊」と名付けられたこの隊に志願したのは
二十歳前後の、未来ある若者たち。
鹿児島県知覧からは、この特攻隊四百数十基が飛び立ち、
この作戦では、合計1,036名もの尊い命が空に散りました…。
知覧特攻平和会館へと向かう道には、
ものすごい数の石灯篭が並んでいました。
なくなった隊員の数、1,036基の石灯篭を建立しようと、
計画されたようですが、すでに1,036基は超え、
まだまだ増え続けているようです。
石灯篭には、兵士さんが彫ってあります。
裏には、建立した方のお名前が彫ってありました。
実際に特攻隊で亡くなった方のご遺族の方の名前も
たくさん見かけました。…胸が詰まります。
会館の前の木は、飛行機の形に整えられています。
「帰るなき 機をあやつりて 征きしはや
開門よ 母よ さらばさらばと」
会館内には、特攻隊のみなさんの写真や、
遺書や遺品がたくさん…本当にたくさん並んでいました。
館内は写真禁止だったので、撮ってないのですが、
近くの食堂に展示されていたものの写真を少しご紹介します。
この食堂は、隊員たちを少しでも癒すためにと
隊員たちに食事を出していた鳥浜トメさんの
ご子息の方が経営されています。
当時、トメさんの食堂は、
隊員たちがホッとくつろげる、唯一の場でもあったそうです。
展示されていたのは手作りの人形達。
隊員たちは、みんなこういう人形を持っていたそうです。
家族や近くの女生徒が、お守り代わりにと
手作りして差し入れたようです。
割烹着を着ているのはお母さんですね。
自分の息子に、と手作りしたのでしょうか…?
切ないです。
特攻隊員達は、たった一人で戦闘機に乗り込むのですが、
その時にこの人形たちを、目につくところに下げたり、
あるいは胸元にしまったりして、一緒に飛んで行ったそうです。
隊員たちの写真もありました。
…17歳から20代の若者たち…。
みんな、きれいな目をしていました。
微笑んでいる写真もありました。
この写真は、たまたま通りがかった新聞記者が撮ったそうです。
「いつ出撃するの?」と聞いたら、「2時間後です」
(実際には、予定が変更になって翌日の出撃になったそうですが)
あと2時間で、自分の命を懸けて飛び立つというのに、
なんて明るいんでしょうか…。
このうち、3人は17歳なんですって。
右上の男の子なんて、お茶目な表情をしていますよね。
うちの学生でも、こんな表情をする子、いますもの。
ウエジョビの学生たちと年代が一緒で…
余計せつなかったです。
隊員たちの遺書…
涙なしでは見られませんでした。
ある隊員さんの遺書には、こんなことが書いてありました。
----------
母上様、
今まで23年間、一点の曇りもなく育ててくださいまして、
ありがとうございました。
私は今まで親孝行の一つもできませんでした。
でも、今回、命を受け、晴れて特攻隊として
お国のために尽くすことができます。
最初で最後の親孝行になります。
もしも、私が、成功しましたら、
「せがれ、でかしたぞ」と
言ってやってください。
母上様の息子に生まれて23年間、
私は幸せでした。
ありがとうございました。
----------
この遺書を読んで、とても切なくなりました。
隊員たちは、きっと、みんなそんな気持ちだったのでしょう。
「お国のため」と書いてありますが、
その底には、
「これが親孝行になる」と信じる気持ちが
とても強かったように思えます。
ただひたすら、親を喜ばせたい一心で、
自分が犠牲になってでも、
大切な人たちを救おうとしていたように思えます。
なんて切ないんでしょう。
…もう、2度とこんなことを繰り返してはいけません。
どの遺書も、親や家族への感謝の気持ちであふれていました。
謙虚な人柄が伝わってきました。
近くで見学していたグループが、
「みんなしっかりしているなぁ、今の若者とは全然違うなぁ」
…と、会話しているのが耳に入りました。
もしかしたら、そういう部分もあるのかもしれませんが、
私としては、今の若者たちも同じ純粋な気持ちを持っているように思えました。
もしも、自分の命が明日で最後…という、極限の状態になったら、
きっと、今の若者たちも、やっぱり
親への感謝の気持ちを書くような気がします。
…そう思いたいです。
…3人とも、涙涙で会館を後にしました。
最後に、父が言っていた言葉が印象的でした。
「特攻隊や戦争がいいとか悪いとかは別として、
教育の力っていうのは、そういうものなんだ」
…心にズシンと来ました。
確かにそうです。
「お国のために」と、自ら命を散らせていった若者達…
彼らの笑顔の写真をみるにつけ、
「どうして? どうして、笑顔なの?
つらくないの? 嫌じゃないの?
泣きたくなかったの?」
という思いがあったのですが、
これも「教育の力」なんですね。。。
ある意味、とても恐ろしいものだと思いますし、
逆に、希望が持てる部分でもあります。
「教育で世界は変えていけるんだ」
…と、涙ぐみながら考えていた私でした。
教育に携わる者として、
真剣に受け止めなければならない言葉です。
隊員たちの遺書や写真を見て、もちろんたくさん泣きましたが、
ただ「かわいそう」というだけでなく
自分自身のことや周りの人たちのことを
いろいろと考えさせられた、貴重な時間でした。
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2011年07月22日
鹿児島知覧旅行記1
今日は、鹿児島知覧への旅の報告です!
佐藤芳直さんの講演がきっかけで行くことになった知覧。
単なるバカンスではなく、いろんな思いを抱えての旅行です。
(旅行のいきさつはコチラをどうぞ!
ようこそ かごんまへ)
午後4時半頃、信州まつもと空港を出発。

FDA(フジドリームエアライン)です。
数年前に、信州まつもと空港が閉鎖になるか!? …という話がありました。
それまで運行していた航空会社が、松本線からの撤退を決めたのです。
長野県から空港がなくなってしまう…というのは、
それまでほとんど空港を利用していなかった私にとっても
かなりショック…だったのですが、
それを救ってくれたのがFDAだったのです!
あの時は、本当に嬉しかったです!
だから、FDAには、感謝と応援の気持ちを込めて乗っています。
今回も、羽田まで新幹線で行って、羽田から鹿児島まで直行、
という選択肢もあったのですが、
迷わず、松本から福岡経由の鹿児島行きを選びました。^^
さて、約90分のフライトで福岡空港到着。

「ようきんしゃったね」の言葉が嬉しいです。
ここでは2時間ほど余裕があるので、空港内で夕食。

さすがに海の幸が美味しかったですね!
つかの間の福岡にさよならを告げ

(心の中で「またきちゃるけん! 3日後に!」と叫びながら)
一路鹿児島へ。

夜9時過ぎにホテル到着。バタンキューでした!^^
翌朝、明るくなって見ると、隣は海上保安庁。

海上保安庁では、ウエジョビの卒業生もたくさん働いているので、
彼らの顔を思い出してしまいました。
(鹿児島にいることはないかもしれませんが…)
海上保安庁には、サッカーボールが飾ってありました。

さて、いよいよ知覧に向かいます。
桜島も、モクモクと煙を吐いています。

桜島と言えば、
2008年に、長淵剛の桜島オールナイトコンサートが行われ、
7万5千人もの人が全国各地から集まったそうですが…
その中の一人に、ヒダカズもいました。
その時は、0泊2日という強行スケジュールで行ったのですが、
さすがに辛かったようです。^^;
なんせ、7万5千人もの人が集まってしまったので、
フェリーに乗るのも長蛇の列でずいぶん待ったそうです。
この写真は、桜島のコンサートが終わり、
鹿児島に戻ってくるフェリーにやっと乗れてホッとしているヒダカズです。

おっ、そう言えば、珍しくメガネをかけていない写真ですね!
桜島には、そのコンサートを記念して、モニュメントが立っているそうですね。
桜島観光 赤水展望広場 長渕剛モニュメント「叫びの肖像」
知覧に向かう途中には、西郷どんもいました。

いよいよ知覧到着です。

続きは次回!
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「70-ザリ君脱走!」
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FDA(フジドリームエアライン)です。
数年前に、信州まつもと空港が閉鎖になるか!? …という話がありました。
それまで運行していた航空会社が、松本線からの撤退を決めたのです。
長野県から空港がなくなってしまう…というのは、
それまでほとんど空港を利用していなかった私にとっても
かなりショック…だったのですが、
それを救ってくれたのがFDAだったのです!
あの時は、本当に嬉しかったです!
だから、FDAには、感謝と応援の気持ちを込めて乗っています。
今回も、羽田まで新幹線で行って、羽田から鹿児島まで直行、
という選択肢もあったのですが、
迷わず、松本から福岡経由の鹿児島行きを選びました。^^
さて、約90分のフライトで福岡空港到着。
「ようきんしゃったね」の言葉が嬉しいです。
ここでは2時間ほど余裕があるので、空港内で夕食。
さすがに海の幸が美味しかったですね!
つかの間の福岡にさよならを告げ
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一路鹿児島へ。
夜9時過ぎにホテル到着。バタンキューでした!^^
翌朝、明るくなって見ると、隣は海上保安庁。
海上保安庁では、ウエジョビの卒業生もたくさん働いているので、
彼らの顔を思い出してしまいました。
(鹿児島にいることはないかもしれませんが…)
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さて、いよいよ知覧に向かいます。
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桜島と言えば、
2008年に、長淵剛の桜島オールナイトコンサートが行われ、
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その中の一人に、ヒダカズもいました。
その時は、0泊2日という強行スケジュールで行ったのですが、
さすがに辛かったようです。^^;
なんせ、7万5千人もの人が集まってしまったので、
フェリーに乗るのも長蛇の列でずいぶん待ったそうです。
この写真は、桜島のコンサートが終わり、
鹿児島に戻ってくるフェリーにやっと乗れてホッとしているヒダカズです。
おっ、そう言えば、珍しくメガネをかけていない写真ですね!
桜島には、そのコンサートを記念して、モニュメントが立っているそうですね。
桜島観光 赤水展望広場 長渕剛モニュメント「叫びの肖像」
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いよいよ知覧到着です。
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